2011年12月17日

主婦の集まり

ついこないだ、マック行ったんですよ。15時頃だったかな?
そしたら主婦の集まりがギャーギャー騒いでるんです。
普通マックってそういうところじゃないですよね。たまにバカは居ますけど。
よくよく話を聞いてみると、バリューセットの料金のことで揉めてるんです。
注文の仕方によっては同じ商品の組み合わせであれば安い価格のものに自動的に合わせられるそうなんですが、それが気に入らないとか。
安くなっていいじゃないかということなんですけど、騙してるんじゃないかと疑ってるらしい。
結局高いお金払ってましたよ。バカですね。  

Posted by ベジータ at 19:15

2009年11月30日

落胆から立ち上がる

あなたは立ち上がれなくなるほど落ち込んだ経験があるでしょうか?

私にもそういうことが何度かありました。

立ち上がろうしていろいろ相談したりしました。
しかしその時学んだことは人の助けには限界があるということです。

やはり最終的には神の助けと力によるのが一番早く効果的だと言う事です。


神様の治療法はどのようなものだったのでしょうか?

第一は体調を整えることです

「彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、起きて食べなさい。と言った。
彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった」(Ⅰ列王19:5~6)

主は疲れきっていたエリヤにまず甘いパン菓子と水、休息を与えられ疲れを癒されたのです。

心と体は一つです。
体が弱っていると精神的にもダメージを受けやすくなります。

神は天使たちの手でエリヤに触れ、黙って食べ物と水を与えられました。

責めたり叱咤激励をされなかったのです。

神はエリヤの状態をよく知っておられ一番必要なものを与えられたのです。

神は実に配慮に満ちた優しい御方であることが分かります。

落ち込んだらまず体調を整えていきましょう。

第二はありのままの感情を吐き出すことです。

うつ的になってしまうような時には否定的な感情が鬱積しています。
それを全て吐き出す時に癒しが進んでいくのです。

エリヤは暗い洞穴で主に祈ります。
それはまるで自問自答のようなものでした。

その中で溜め込んでいた「恐れ」、傷ついたセルフ・イメージから来ていた「罪悪感」「孤独感」、また報われないことに対する「怒り」そして「心配」を注ぎ出していったのです。

これを心理学ではカタルシス(浄化法)と言うそうです。

私たちはこれを人にして失敗してしまいます。

人は他の人のマイナスの感情をほとんど受け取れないものなのです。

ヨブという人が聖書に出てきます。
神を畏れる敬虔な人であらゆる悪から遠ざかっていた義なる人でした。

ところが彼はある日突然、災害により全財産と10人の子ども失います。
さらに自分が思い皮膚病にかかってしまいます。

その試練の中で3人の友人たちがヨブのもとにお見舞いに来て、3人は7日間も共に泣いてくれたのです。

ヨブは心を開いて3人の友人たちに絶望や虚しさ、悲しみを受け取ってもらおうとしたのですが、3人の友人たちは何とすぐにヨブを責め始めました。

イエス・キリストだけが私たちの全てを、どんな醜いものも汚れたものも、重いものも受け取ってくださるのです。

イエスが弟子たちの足を洗われた記事が聖書に出てきます。

弟子のペテロは師であるイエスに足を洗わないでくださいと言いました。
その時イエスはもし私がお前の足を洗わなければ私とお前とは関係がなくなると言われたのです。

足の汚れ・・・・

それは日々、私たちに否応なくついてしまう罪であり汚れであり醜さであり弱さなのです。
イエスと私たちの関係・・・

それは綺麗ごとではないということです。

それをイエスに打ち明け受け取ってもらうことを通して、はじめてイエスという御方と私たちは人格的な関係を持つことができるのです。

第三は神との親しい交わりです。

心の中にたまっていたものを吐き出した時、エリヤはもう一度主の御声を聴けるようになりました。

主はエリヤに語られる前に風と地震と燃える火を送られました。
しかしこれらのしるしの中でエリヤは主と出会ったのではありませんでした。

エリヤは静かな細き御声の中で主と出会い深い交わりを体験したのです。

神は沈黙と静寂の中におられます。

あなたは沈黙と静寂の時を持っていますか?
がむしゃらに走り続けて不安をまぎらわせてはいないでしょうか?

第四は新しい使命とビジョンです。

自己憐憫や被害者意識によって自分にとらわれていたエリヤは神との出会い、神との交わりの中で自分へのこだわり、執着から解放されていきました。

使命に目覚めたのです。

再び神のために生き始めた時にエリヤは立ち上がることができました。

自分に捕らわれれば捕らわれるほど私たちは迷路に迷い込んで出口がなくなります。

自分のいのちを神のために使い始めてください。
自分のいのちをあなたのそばにいる人を愛するために使い始めてみてください。

きっと光が見えてきます。
  

Posted by ベジータ at 15:02

2009年10月20日

美しく、祝福の人生を生きてほしいから

神様は私たちのために
美しく、祝福された人生を備ええくださいました。
それは敗北ではなく、勝利であり
絶望ではなく、希望であり
死ではなく、いのちです。
神様はこのような素晴らしい祝福を
私たちが限りなく楽しむことを願っておられます。

しかし、私たちが実際に経験する生活は
抜け殻のようなものです。
見た目だけの祝福という名の下で
寒さに凍え、苦しみ、飢え、渇いています。
内面には深い葛藤とむなしさがあります。

神様は祝福の根源であり
私たちは祝福の通り管です。
神様がおられないと祝福を受けたくても
受けることができません。

まことの人生の祝福は
その方に出会い
その方と共に歩むときにあります。

神様に出会ってください。
神様の御声を聴いてください。
御前に進み出てください。

生活に疲れたあなたの背中をさすり
凍えている手を温めてくださる方に出会えることができるでしょう。
私たちが求める幸せは奇跡ですが
神様がくださる幸せは祝福なのです。   

Posted by ベジータ at 16:14

2009年10月08日

愛による怒り



ちょっとイエスキリストの教えについて書こうと思います。



愛という言葉は世の中に氾濫しています。

愛されれていると感じるのはどのような時ですか?

受け入れられた時、理解された時、慰められ励まされた時・・・

愛ってそれだけでしょうか?

優しいだけが愛なんでしょうか?



イエスという御方に対して多くの人は柔和で謙遜というイメージを持ちます。
聖書を読むと確かにそのような御方です。
しかしそのイエスが激しく怒ったことが記録されています。

それはエルサレムの町に上られ神殿に入った時でした。
そこでイエスはある光景を見たのです。
礼拝に来る者たちが捧げるいけにえの動物たちを売る商売人たち・・・
ローマのお金を神殿に捧げるために必要なお金に両替する商売人たち・・・

神殿での礼拝には必要とされる人たちでした。
最初は巡礼に来る人たちを助けるために善意から出たことでした。
しかしやがてそれを利用して商売して利益をむさぼる人たちが出てきたのです。

イエスはそれらの商売人を見た途端に激しく怒り、ムチを使って動物たちを追い出し、両替人の金を散らし、叫びました。

「私の家は祈りの家と呼ばれると書いてある。それなのにあなたがたはそれを強盗の巣にしている」と・・・

イエスはなぜそれほどまでに怒ったのでしょうか?

イエスが何よりも愛していた神が利用されていたからです。
イエスが何よりも喜ばれた聖なる礼拝が汚されていたからです。
イエスが何よりも尊ばれた信仰が卑しめられていたからです。

イエスはそれに耐えることができなかったのです。

イエスは罪深く汚れた者や弱い者をどこまでも愛し赦しあわれんでいかれました。
しかしイエスが激しく怒った人たちがいました。

それは偽善者です。
神殿の商売人たちは巡礼者たちを助ける敬虔な信仰者のように見せかけていたのです。
誰よりも神を愛し神殿を大切にしているかのように振舞っていました。
しかし、実体は神に名を借りて貪欲に宗教商売をしていただけでした。

神を愛しているかに見せかけながら神の愛を踏みにじる人たちだったのです。

そのような者にイエスは激しい怒りを示したのです。

時々このようなことを言う人がいます。
「神が愛ならばなぜ裁きなんてあるのか?神が愛ならばなぜ地獄なんてあるのか?神は愛だから全ての人を救ってくださるはずだ」と・・・

あなたは誰かを心から愛したことがありますか?
愛したならばその愛に応答してほしいと思うのではないですか?
心から愛したのにその愛を利用され裏切られたとしたらどう感じるでしょうか?
「いいんだ、いいんだ。何されてもいいんだ。愛とは無条件だ。愛とは見返りを期待しないものだ」なんて思いますか?

激しく怒るに決まっています。

妻が心から夫を愛して献身的に仕えて夫がその愛を利用して浮気をした時に怒らないでしょうか?
もしそれでも怒らないとしたらその妻は本当は夫を愛していなかったということです。

親を大切にすべきだということは誰に教えられなくても誰もが知っていることです。
なぜですか?
それは親の愛がなければ私たちは生存することができなかったからです。
もちろん親も人間なのでその愛は完全ではありませんでした。
いろいろ間違いも失敗もあったでしょう。
それでも親の愛、親の恩には報いるべきである、それが正しくて善い事であるというのは私たちの良心の当然の命令です。
その良心の命令に反する時、一番苦しむのは誰でしょうか?
親でしょうか?
いやその人自身です。

私たちの良心は知っているのです。
愛されたならばその愛に応えるべきであるということを・・・・

私たちは創造主にどれほど愛されきたのでしょうか?
ある方は言います。
「神様がどう愛してくれたって言うの?神様なんて何もしてくれない。神様なんていてもいなくても関係ない」・・・

あなたは生まれようとしてこの世に生まれてきたのですか?
あなたの体でどこか一つでもあなたが自分で造ったものがありますか?
あなたの心臓はどうして今も動いているのですか?
心臓を動かす電気は誰が供給しているのですか?
空気、水、太陽の光、食物となる植物や動物は誰が与えてくれたのですか?
全て創造主からの贈り物です。

何もかも与えられて備えられて守られてきたから今、生きていれるのではないですか?
その創造主の愛といくつしみに感謝の一言もなく死んだらみんな天国なんてそんな話、あるわけないのです。

罪とは何でしょうか?
犯罪となるような悪いことをすることでしょうか?
いや最大の罪とは愛され恵まれ続けているのに、その愛に感謝もせず全く応えようとしないことです。

イエスは愛が利用され踏みにじられるたびに激しく痛み、苦しみ、涙を流しながら、それでもイエスはなおあなたをもう一度愛してくださるのです。

いつか必ず私の愛を分かってくれる時が来るとあなたがその愛に応答する日を待ち続けながら・・・




  

Posted by ベジータ at 13:46

2009年10月08日

はじめまして。

初めてブログというものを書きます。

ちょっとでも多くの人に見てもらうようにがんばって更新しますので、

よろしくお願いします。  

Posted by ベジータ at 13:45